Ayurveda for your life

ブータ・ヴィディヤー講座開講にあたり*はじめに

photo by Hako Hosokawa

五体満足なのに、健康ではない

身体に不調はないのに元気ではない

そんな状態に昔から興味を持っていた。


#001

それはほんとうに遠い昔で、私がまだ中学生の進路を決める頃だったと思う。

「精神」という言葉を知り、そしてそれを治癒する職業があると知り興味が湧いた。

その当時の私の得た情報の限りでは見えない病を扱うのは「精神科医」か「臨床心理士」という人たちで

祖父の入院していた病院にお見舞いに行っていた小さな頃の記憶から、病院という場所のもつ独特の雰囲気や匂いが苦手だった私は、迷わず後者を選び、それを自分の職業にしようと思った。

その当時、折しも世の中はちょっとした「心理学」ブームで 

専門書以外にも”ココロジー”と名のつくような一般向け心理学の本が本屋さんに積まれており、各学校においてスクールカウンセラーの設置が進み、香山リカさんがメディアによく登場していた。「こころ」の時代という言葉をたびたび耳にした。

戦後から高度経済成長期をがむしゃらに駆け抜けてきた日本がふと立ち止まり、犠牲にしてきた数々のものやことに目を向けてみた方がいいんじゃないか、と警鐘を鳴らすようなそんな時代のタイミングでもあったのだと思う。

木村敏先生、中井和夫先生、河合隼雄先生など偉大な精神科医心理学者がキラ星の如く在られた頃。見えない病を扱う専門的な仕事がしたいという一心で受験勉強を終え、ようやく学びたかった世界にたどり着いた私に摂って、心理学は面白かった。

大学では日本で有数の精神分析家である藤山直樹先生からフロイトについての多大な影響を受け、認知心理学の道又爾先生に毎回たくさんの疑問をぶつけ、当時はまだ珍しかった児童の発達障害や自閉症スペクトラムを扱う小児科の先生から多くの臨床での知見を教わった。理論を実践に活かしたい、とChild line というイギリス発祥のボランティア団体をみつけ。そこで研修を受け、大学時代はこどものカウンセリングを行っていた。

見えない世界を扱う職業の人たちの思想はとても興味深く
そして面白かった。

その一方で、この学問は人の苦しみの解決にはならないのではないかと暗澹たる気持ちも持っていた。

心理学の教授は時々うつ病で授業を欠席した。
終日室内でゲームをし、コンビニのご飯を食べ、昼寝て夜起きて、週に一度カウンセリングに通う
それはそれでまかり通っていたが、それでほんとうに良くなるのだろうかと思った。根本的なところで何かが欠如しているように思えた。

心のことに特化し、身体のことが置いてけぼりだったのだ。


#002

そんな大学2年生の20歳の頃、私はインドへ行った。

インドへ出発する直前に、たまたま柏駅のホームでその当時付き合っていた恋人の元彼女に出会い「サキちゃん、インドに行くんだって? アーユルヴェーダって知ってる?」と訊かれた。

小鹿のように躍動感のある女の子だった。

私はアーユルヴェーダという言葉をその時初めて耳にしたので、それはなんだろう、と思いながらインドへ出発をした。

そして人から人へと運ばれて、見事に南インドの世界最古のアーユルヴェーダリゾートSomatheeramに連れていかれ、そこに展開するまるで天国のような風景に目を見張ったのだった。

何よりもびっくりしたのは、ニコニコと笑う日焼けしたオーナーさんから聞いたそこが病院である、という事実だった。

そこまでのインドの埃っぽい過酷な旅から一転、Somatheeramでは椰子の木が柔らかな風にそよぎ、眼下にはインド洋が輝き、木陰ではハンモックが揺れていた。

芝生の敷地内では医師も看護人も患者もみんなリラックスした表情でゆったりと歩いており、外に置かれた大きなテーブルではドイツからの患者さんご一行様がニコニコとしながら光を浴びて、美味しそうに穏やかに昼食を食べていた。

これがアーユルヴェーダです。アーユルヴェーダというのは医療です。ここにくるだけで、大概の人は3割程度は良くなっちゃうんですよ。

と、そう言われ私は本当に衝撃を受けた。

日本に帰国してすぐにアーユルヴェーダの本を買い、巻末に書いてあった祐天寺のハタイクリニックにある「東洋伝承医学研究所」というところに電話をし、アーユルヴェーダを学びたいのだがどうしたらよいか、と聞いた。

そうしたら、ちょうど来年の春から日本アーユルヴェーダスクールという学校が始まるからそこに来るといい、と受付の女性に言われた。

私は成人式用に親が貯めてくれていたお金を使ってこの学校に通うことしにした。


#003

そんなふうにして、ダブルスクール生活が始まった。

現在日本橋の立派なビルの中にある日本アーユルヴェーダスクールは、当時はハタイクリニックの2階の小さなスペースだった。さんさんと陽のあたる明るいその部屋が、私たちの学舎だった。

既にクリニックでお仕事をされている偉い先生方などに混ざり授業を受けていた髪がキンキンに茶色く眉毛も鋭角だった大学生の私。(仕方ないのです。安室奈美恵ちゃんが流行っていたのです。)

ピタッとしたタイダイのTシャツにヒョウ柄のミニスカートを履いた福岡出身のスレンダーで明るい梅村静代ちゃんというお姉さんがおり、前日にインドから帰ってきたばかりで、友達の服を借りてきたから変でごめんね!!!と言って心を和ませてくれた、

(そして2学期の講師の田端瞳先生とは彼女を介して知り合いました。)

一年750時間のカリキュラム。

インドのアーユルヴェーダ大学最高峰のインド国立グジャラート大学の博士号、日本の岡山大学や三井グループでの事業を経て、日本でアーユルヴェーダ教育をスタートされたドクタークリシュナU.K校長直々の授業を受けた幸運な一期生。

早朝起床のこと、歯磨きのこと、舌磨きのこと、、、

古典書をベースとした学びは行けども行けどもそんな調子で、人の身体に触らせてもらえるのも理論を終えた後とのことで、なんだかなかなか思っていたところに辿り着かないなあ、、と思いながら

子どもの出産とともに最終学年を卒業し、アーユルヴェーダに関わる仕事ならなんでもしたい!と思いながら独立し、セラピストとなり、現在に至る。

その間たくさんの人に触れ、身体のことにも詳しくなった。

日常のくらしの意味、病気を予防するとはどういうことなのか、ということを身をもって学んだ。

アーユルヴェーダのオイルを用いたトリートメントや、アーユルヴェーダのドーシャ理論を用いたカウンセリングを通して多くの人生と出会った。

人が癒えていくとは何か、というテーマをずっと探求しながら

アーユルヴェーダの仕事は、いつも様々な世界を見せてくれる私の大好きな旅のようだった。

20年経って、

今ようやく、アーユルヴェーダを学ぼうと思った原点である「見えない病」について

すなわちアーユルヴェーダ8科のうちの一つ、ブータ・ヴィディヤー(鬼神学)について

学ぶ機会に恵まれた。